教えのやさしい解説

大白法 447号
 
本  尊(ほんぞん)
 本尊とは、各宗教によって異(こと)なりますが、一般的に信仰者が供養し、礼拝(らいはい)・祈祷(きとう)し、生命を委(ゆだ)ねる対境(たいきょう)をいいます。
 本来、本尊には、一切の根本を尊崇(そんすう)するという根本尊崇の義、本然的(ほんねんてき)に尊ぶべき当体(とうたい)としての本来尊重(そんちょう)の義、無始(むし)以来(いらい)の尊い相貌(そうみょう)としての本有(ほんぬ)尊形(そんぎょう)の義を含(ふく)みますから、これら三義をよく具(そな)えていなければ、誰しもが尊崇するに値(あたい)する本尊とはなりません。ゆえに、『本尊問答抄』に、
 「本尊とは勝(すぐ)れたるを用(もち)ふべし」(御書 十二七五頁)
と説かれるように、一切に勝れた真の本尊を選別(せんべつ)することが肝要(かんよう)です。
 また本尊には、仏(ぶつ)、菩薩(ぼさつ)等の人(にん)本尊と経典の法体(ほったい)としての法本尊があります。しかし、これらの外道(げどう)や爾前(にぜん)権教(ごんぎょう)の本尊は真理の一分(いちぶん)を表(あらわ)したものにすぎないのです。
 真実の本尊のうち、まず人本尊とは、主師親の三徳を兼備(けんび)された久遠元初(がんじょ)の御本仏日蓮大聖人です。『開目抄』では、一往(いちおう)、本門文上(もんじょう)の釈尊をもって主師親とされますが、再往(さいおう)、末法という時の上から、法華経の行者こそが一切衆生の真の主師親であることを示され、結論として、
 「日蓮は日本国の諸人に主師(しゅし)父母なり」(御書 五七七頁)
と、大聖人こそが三徳兼備の末法の御本仏であることを明かされました。ゆえに、『御義口伝(おんぎくでん)』には、人本尊について、
 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書 一七七三頁)
と明確に結判(けっぱん)されています。
 次に法本尊について、『本尊問答抄』には、
 「法華経の題目を以て本尊とすべし」(御書 一二七四頁)
と妙法蓮華経の題目を本尊とすることを明かされました。『観心(かんじんの)本尊抄』では、五重三段の教判により、妙法蓮華経の本尊こそが、法華経寿量品の文底に秘沈された久遠元初の本因(ほんにん)下種の法体であり、末法の一切衆生の即身成仏のための本尊となると決せられています。
 そして、弘安二年十月十二日、御化導の究竟(くきょう)として、本門戒壇の大御本尊を建立されたのです。日寛上人の『観心(かんじんの)本尊抄文段(もんだん)』に、
 「十方三世の恒沙(ごうじゃ)の諸仏の功徳、十方三世の微塵(みじん)の経々の功徳、皆咸(ことごと)くこの文底下種の本尊に帰せざるなし」(日寛上人文段集 四四三頁)
 「問う、妙法五字のその体(たい)何物ぞや。謂(いわ)く、一念三千の本尊これなり。一念三千の本尊、その体何物ぞや。謂く、蓮祖聖人これなり」(同 五四八頁)
等とあるように、本門戒壇の大御本尊は、もとより二にして不二(ふに)、すなわち人法一箇の尊体(そんたい)にましますゆえに、諸仏諸経の一切の功徳を納めた真実最勝の本尊と称するのです。
 私たち末法の衆生は、この大御本尊を信じ、題目を唱えるとき、『観心(かんじんの)本尊抄』に、
 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足(ぐそく)す。我等此(こ)の五字を受持すれば自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲り与(あた)へたまふ」(御書 六五三頁)
と説かれているように、仏の因行果徳の功徳を譲り受け、即身成仏の境界(きょうがい)に到達することができるのです。